Mio treno - A che ora parte il prossimo treno?-

自分の持っている鉄道模型や大好きな近鉄を中心として話題展開しているブログです。

金剛バスを思う その(3)




金剛バスの東條線4番線から発車する。昔から変わらない。








案内表示は、こんごう福祉センター前ではなく、金剛コロニーセンター前のままだった!)

バスは駅のロータリーを出た後、若松町の本町北の交差点まで直進するが、昔は本町の交差点で右折していた。じゃんぼスクエアを右手に見ながらバスは進む。昔、この場所には西友があった。1階には市場が入っていて、活気があり、買い物客でいっぱいだった。ダイエーも駅の向こう側にあったから、どちらに行くか楽しみもあった。大和百貨店という古い商業施設もあり、富田林の駅の周辺はにぎやかだった。(みんなどこに行っちゃったのだろうか.…)

堺筋まで来ると、目の前に雄大な金剛山が広がり、石川を渡る。この景色をみながら、創業者は金剛バスと名付けたのだろうか?なじみのある僕の大好きな景色だ。子供のころは、学校行事の金剛登山にいったものだ。(その時にも送迎には金剛バスが来てくれていた。)すべての路線(川西廻りをを除く)のバスは金剛大橋を渡るまでは一緒。橋を渡ったところで、北大伴線と石川線は左折。坂を下ると、千早線、白木線、河内線、さくら坂循環線は直進。東條線、富田林循環線の佐備回りは右折、狭い道を南下するする。柏木住宅前、板持、第三中学校を過ぎたころから、少しずつ田舎の景色に変わってくる。
佐備川を左手に見ながら、田んぼが広がる。中佐備の交差点、坂を上ると平坦区間、上佐備を過ぎると、東條小学校前を通過する。授業時間なのだろう、乗ってくる小学生はいない。(画像の案内板はすでにコミュニティバスで使用のものを用意していた?)





嶽山のふもとをバスは蒲まで進む。嶽山にはみかん園、河内飛鳥古寺の龍泉寺、頂上には亀の井ホテルがある。昔は、かんぽの宿で、一時期、河内長野から南海バスがやってきていた。乗車したバスはこんごう福祉センター前経由甘南備行きだから、蒲のところで、右折。蒲中央へ。昔は、福祉センター東口が金剛コロニーセンター前のバス停だったし、こんごう福祉センターも金剛コロニーという名前だった。蒲中央を経由して金剛コロニーという福祉施設に入り、金剛コロニーセンター前(現在のこんごう福祉センター前)を通ってコロニー東口(現こんごう福祉センター東口)に循環する路線は確か1986年の12月に変更された路線で割と新しい(と言っても30年以上経っている)路線だった。バスの路線が変更された時は、蒲中央のバス停の付近には、「蒲町内会の皆さん、バスがやってきます」みたいな歓迎のお知らせがはってあった。このルート変更よりも数年前に、金剛バスの運転手さんが、「コロニーができたころ、バスが入るという話もあったけどな、なくなった」みたいに話しておられたのを聞いたことがあったから、新しくバス路線が変わったときに、びっくりしたのを覚えている。



(元金剛コロニーセンター前→コロニー東口→こんごう福祉センター東口バス停)


バス運行最終日、甘南備の町内会の人々が本当に本当の最終バスが甘南備バス停に到着した時、多くの方々が集まってこれまでの感謝の気持ちを表されたそうだ。


コミュニティバスに移行後、東條線は残されることになったものの、甘南備地区は南海のコミュニティバスがこんごう福祉センターで折り返し、そこまではいかず、運行本数は近鉄が運行する市のレインボーバス4本だけに激減。(正直言うと、コミュニティバスにおいて東條線が残されると聞いたとき、甘南備~吉年間はバスの便がなくなるだろうが甘南備までは何とか残るのでは?と予測はしていたが、現実は厳しかった。)


その後、こんごう福祉センターから乗り合いタクシーの手配が夕方にされたそうだが、そのような大変な状況の中で、感謝の気持ちを表せるっていうのは本当に優しい人々だな、と思った。このように地域を愛する人々こそ、冷遇されることなく。今後、状況が改善されることを祈るばかりである…

金剛バスを思う、その(2)

金剛バスを思い出してみると、自分の中ではっきりしているのは、昭和57年か58年くらいのことだと思う、


今は、富田林駅の南口もきれいに整備され、ロータリーに4台のバスが配置される形で、1番のりば、北大伴、石川線、2番のりば、千早線、3番のりば、白木線、河内線、
さくら坂循環線、4番のりば、東條線、富田林循環線となっている。





昔は5番のりばまであり、近鉄のホームに沿ってバックでバスがのりばに入る形をとっていて、バス誘導のホイッスルの音が響いていた。そして、北口のロータリーができるまでは、志紀車庫へ行く近鉄バス(今はこちらも廃止)も入っていたから、にぎやかだった。


1番のりば、石川線、2番のりば千早線、3番のりば、白木、河内線(その当時はさくら坂はなかった)、4番のりば、東條線、5番のりば北大伴線。僕の記憶が間違いなければ、はじめはこの配置で、1番のりばと5番のりばを入れ替えますという発表があり、1番のりば、北大伴線、5番のりば石川線に入れ替わった。その後、駅の整備があって、北大伴線と石川線が一緒になり、1番のりばに統合された。


その当時は、加納行きとか、芹生谷行きとか、第三中学校前行きとかもあった。金剛バスは最終のバスが早く、東條線で言えば、19時11分 東坂(吉年)、20時23分金剛コロニーセンター前、20時53分甘南備、21時22分第三中学校前行きが最終だったと思う。その後、21時47分の佐備回り循環が最終になったが、それにしても早いなと思ったものだった。


富田林駅から石川を渡って、北大伴へ、千早赤阪村へ、河南町へ、富田林の東條地区へ、1~5番のりばまであった時代は、ラッシュの時になると、あべの橋からの近鉄電車の到着時刻に合わせて、15分ごとに5台のバスが一斉にターミナルを発車していく姿は迫力があった。時代も団塊の世代が働き盛りの時代だったから、どのバスもお客さんでいっぱいだった。バスが発車した後も、バス乗り場から道路へ出ていく際に赤信号でバスが引っ掛かると、バスのドアをたたいて、乗せてもらうお客さんの姿もあり、忙しい中にものどかな日常が展開されていた。


金剛バスを思う、その(1)

今年、一番驚いたニュース。9月に飛び込んできた、まさか、まさかの金剛バス廃止







6月ごろ、タクシー事業から撤退し、心配はしていた。時々、富田林に行くたびに、バスをのぞきこむと、お客さんは少ない…。昼間だからということもあったかもしれないが、その後のいろいろな記事などを見るとやはり赤字に苦しんでいたことがわかる。


金剛バスにはいろいろな思い出がある。おそらく、地元の人にとっては余計にそうではないだろうか。「バスがなくなるとさみしい」といったコメントがあちこちにあった。




今は富田林を離れてしまったが、子供のころ、この緑色のバスにお世話になった。富田林の市内(東條、彼方、大伴地区)、太子町、河南町、千早赤阪村、この地域をカバーしていたバス会社。物心ついたときから一番近くにあった公共交通機関といえば、金剛バスだった。


供の行動範囲は狭いから、駅近くのダイエーや西友に買い物に行くときも、学校の登下校も、外の世界に連れて行ってくれるのは金剛バスだった。



だからこそ、このバス廃止を聞いたときは、自分の思い出の一部が削り取られるような気がして、大変胸が痛んだ。廃止されて、南海バスや近鉄バスが富田林駅に並んでいるニュースを見ても、まだ、信じられない自分がいる。